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大きな時代の変化の中にあって人はどうすればいいのか 幕末から明治を生き抜いた2人の男
そして福沢は、ビジネスには帳合の法が必須のもの。また現代の貸借対照表を『平均表』などと訳しているそうだ。福沢は簿記の真意をわかっていたというしかない。要するに『複式簿記』のことであった。
えっと驚くかも。今では商業学校では当たり前のように習っている簿記がそれほど重要なことなの?と。
ハイ!実に重大なことである。
『近代資本主義における産業経営は、複式簿記の土台の上で営まれる。複式簿記はそれほどまでの致命的重要さをもつ。(中略)複式簿記なくして資本主義なしとまで言える』と、社会科学の泰斗・小室直樹氏は著書「国民のための経済原論Ⅱ」=光文社刊で言いきっている。
日本的な商売とは
違うビジネスとは
一方、福沢諭吉については歴史作家・司馬遼太郎氏が、やはり著書『アメリカ素描(そびょう)』(読売新聞社・昭和61年刊)において述べている。40日間、アメリカ各地を巡り、西欧と日本の文明・文化の違いを論評した、いわば比較文化論である。以下はその一部から引用させてもらう。
――ビジネスということばを金融と商業の運営という面にかぎって考えたい。西欧では〝商売〟というものが学問化されていると(福沢は)いうのである。
西欧諸国にはそのようなビジネスという新たな商法と仕組みがあることに気付いた人が、啓蒙思想家・福沢諭吉である。
それは江戸時代の豪商や商人らが身に着けていた日本的な商売のコツとはまったく違った内容のものだった。だから幕末から明治初期、低迷を続ける商売をまた再び活性化させるには如何にすべきか。福沢は今までのような商売のやり方でなく新たな西欧型ビジネスを強く推奨したのだ。
後世の〝資本主義社会〟という新たな時代を迎えるための必須条件であるビジネス経営の啓蒙、そしてその実現化をめざしたのである。
商売の法を遠大に
するとは何なのか
福沢は何を言いたかったのだろうか。先述の「帳合の法」の文中、次のような面白いことを言っていると司馬氏はいう。
――古来、日本国中に於いて、学者は必ず貧乏なり、金持ちは必ず無学なり。
故に学者の議論は高くして、口にはよく天下を治(おさむ)ると云えども一身の借金をば払うことを知らず。
(*筆者注=日頃、学者は偉そうなことを言うが、そのくせ自分の借金すら返せないではないか)
――金持ちの金は沢山にして或いはこれを瓶(かめ)に納(い)れて地に埋むることあれども天下の経済を学びて商売の法を遠大にすることを知らず。
(*同注=お金儲けはうまいけど、商売を遠大にするビジネスと云う新たなしくみを知らなければいけないよ)
司馬氏は『福沢がいうところの〝商売の法を遠大にする〟が、こんにちの用語でのビジネスといっていい』と述べている。
これまでの商売は単に伝統的な考え方に基づく方法で金儲けをすればよかった。それはそれで正当性があるかも。しかし新たな西欧のビジネスとはそうではなく別のものだと云うのである。
さらに福沢が結びとして云わんとしていることについて。
――今、此の学者と此の金持をして此の帳合の法を学ばしめれば、始めて西洋実学の実たる所以(ゆえん)を知り、学者も自ら自身の愚かなるに驚き、金持も自ら自身の卑しからざるを悟り…。(中略)帳合も一種の学問たりと、此の訳書を見ても既に明白なり。されば商売も学問なり、工業も学問なり…と。
つまりここは学者さん或いはお金持ちのみなさん、西洋実学の実によって新たに得ることがありますよと述べているところある。
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