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伊藤良哉の現場探訪
「不要不急」の判断基準とは 不要を歓迎、元に戻らないことも
早いものでもう11月、この連載は隔月なので今年最後となる。ということで少し気が早いが今年の締めくくりのような話をしてみようと思う。
今年を振り返れば当然新型コロナということになる。新型コロナといえばどうしても触れずにはいられない言葉がある。「不要不急」だ。「不要不急」の外出を控えるようにと連日のように報道されたから、誰しも嫌でも耳に残ったことと思う。
「不要不急」とは『広辞苑』によれば「どうしても必要というわけでもなく急いでする必要もないこと」と解される。かくして「不要不急」の判断基準(?)は単に外出に限らず遊び・仕事・学業を問わず、あらゆる場面に幅広く適用された。
その解釈は難しく、というか極めてあいまいなのだが、我々のような立場の仕事で言えば、講習会、研修会等は、軒並み延期、あるいは中止された。おいおい、不要不急なのか、と言いたいところだったが世の中の空気にはあらがえない。周りを見渡せば学校は休校、サラリーマンは在宅勤務、さらには子供の結婚式を中止した、親の葬儀を限られた親族だけで簡単に済ませた友人・知人も数多く、気がつけば周りのものは何もかも「不要不急」という言葉の中に飲み込まれ、すべて「自粛」対象となっていった。
ところで「不要不急」という言葉を改めて見直すと、不要と不急に別れるのだが、この二つを並列にするのには何とも言えない違和感を覚える。
不急はまだいい。「急いでする必要がない」ということは「最優先ではない」つまり「今でなくてよい」ということで、行動のタイミングを意味している。5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)の整頓のようなものだ。
しかし広辞苑の「どうしても必要というわけでない」という「不要」の定義はどういうことか。くせものは「わけではない」である。平たく訳すと、絶対に必要かと言われると、そういうわけではないが、だからといって必要ではないとも言い切れない、ということになる。なんとも日本語らしい曖昧な定義だ。
そんな風に定義すれば世の中のものごとは全部「不要」になってしまう。まして他人の目が判断基準の日本人である。かくして世の中のありとあらゆることが不満を背負いつつも「不要不急」に放り込まれてしまったのが、新型コロナ禍の自粛期間ということになる。
もちろん実際のところは「不要ではないが、今じゃなきゃいけないかと言われたら」としぶしぶ妥協したのではあるまいか。それで経済が停滞したとしたら、経済は「不要不急」で成り立っていたということになる。
この「不要不急」にされたまま歓迎されて元に戻らないこともたくさんあるだろう。例えば健康な高齢者の病院通い、あるいは都心部の高い家賃のオフィス、サラリーマンの付き合い酒とか、会議や会合、式典の長い挨拶とかは、不要不急の殿堂入りかもしれない。
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